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シンプル・ライフ

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「カンフーハッスル」



素人さんにゃあわからねぇ! ~カンフーハッスル~





 今から2年前みた、一番面白い映画ってなんですか? 
 そう訊かれてなんて応えられるだろう? 私はこう答える。「少林サッカー!」
 本当に素晴らしい映画だった。限りなく完璧な映画だった。
 派手な演出や、確信犯のバカさから、バカ映画と勘違いされがちだが、いかんせん、そいつは素人の見方過ぎるぜ。尻のほっぺが真っ青だぜ。
 ストーリーに関しては、アクション満載の後半より、実は前半が重要な作品だ。アクションなんかより、一芸に秀でては居るものの、それゆえにうまく生きられない下層の人間の悲哀が実にうまくかかれていた。
 こんなん、世間で小器用にやってらっしゃる皆さんにはわからんかもしれん。わからなければ少林サッカーもわからない。
 レペゼン下層人間として私には、痛いほどわかる。
どういうことかってーと、例えば、授業はろくに聞けない、指先は異常に不器用、記憶力は低いし、集中力は下痢したチンパンジー並といった男が居たとする。
 こいつが、唯一、カクテル作りだけが得意だったとする。そうすればどうなる? 職業はバーテンダーしかない。否が応でも、昼働いて夜休むってわけにはいかない。つまり、まっとうな昼夜の生活はこの途端奪われる。
 そうなれば恋人との付き合いだって難しいだろう。いや、出会いがうまくつくれないかもしれない。
 収入だって限られる。バーテンダーの給料なんて限られた物だ。普通の店ではボーナスもないし保険もない。
 トップになって、ホテルで働けだと? わかってねぇな、こいつは視力も悪いし、コンタクトが合わない体質なんだ。めがねをかけた人間は、一流の店では雇われない。賃金は上がらないぞ。
 全力をかけてうまいカクテルを作るが、金も人望もまともな生活も手に入らない。おまけに夜中にまかないを食うからどんどん太る。これがこいつの人生だ。
 チャウ・シンチーの映画は、こういう奴の映画だ。高度経済化社会に適応できない人間の映画だ。
 少林サッカーでは、拳法に全てをささげたが、それでは当然一文にもならないという若者が、サッカーを通してまともな人生を手に入れる様が、実に完璧な手法で描かれている。
 この辺、ある程度映画の見方がわかった人間にしかわからないだろうと思うから1から説明しよう。
 映画というのは、虚構である。スタジオロケでは、背景から全て、1から作られている。つまり、必要なもの意外は、存在しないのだ。
 例えば、ちゃぶ台に置かれたお茶と急須、それにさえ意味がある。これがただしい映画だ。それを映画好きは読み解いていく。
 昔、まだ物作りがわからない頃、ある友人と「魔界転生」に付いての話をしていた。
 ジュリーが格好いいとか、原作と全然違うとか、そういう話だったと思う。
 その中で、ふと私が言ったことがある。あの映画のラストが、ちっとも話が終ってないってことだ。
 この映画では、ラスト、燃え盛る天守閣で、主人公の柳生十兵衛と、天草四郎が対決となる。
 十兵衛は苦闘の末、ジュリー演じる天草四郎の首を切断する。やった!!
 だが、次の瞬間、地面に転がった首を天草四郎は引っつかみ、さらばだとばかりに炎の向こうに去ってゆくのだ。
 映画はこのまま終わりとなる。中途半端と感じるなら、あなたもあの頃の私と同じだ、映画の見方がわかってない。
 友人は言った。「でも、あれはあの炎上の中、十兵衛が見た幻なのかもしれない」
 目から鱗が落ちるとはそのことだ。彼は背景の意味を読み取り、物語全般に一貫した意味を見つけていたのだ。
 この見方によって、ラストはまったく違った意味を持つ。
 私は矮小化して見ていた! ちんけな自分の範疇の中だけで、作品を勝手に決め付けてみていたのだ!! これでは自ら檻に閉じこもった引きこもりではないか!!
 それ以来、映画を本気で見るときは、油断しないようにしている。背景から小道具、全てが意図をもっているからだ.
「ニューシネマパラダイス」の終盤では、男が故郷に帰ったとき、毛糸球が落ちて転がり、糸が伸びる。それが映画のフィルムが動き出し、回転することのメタファーだと見つけた。
「千と千尋の神隠し」が、ソープ嬢の話だとわかったのも彼との経験のお陰だ。
 さらに細かく言うと、人間には生理的に左右から受ける印象が変わる。なぜなら心臓が左からあるからだ。それを意識して少林サッカーをもう一度思い出してもらいたい。ボールが飛んでいく方向が、全て計算されている。成功するシュートは、みんな一定の方向に飛んでいる。
 あの、うまく行くようでいて実は失敗するシュートに至っては、途中からカメラアングルが変わって逆になるのだ。
 踊る大走査線みたいないいかげんな映画の、デタラメに回るカメラワークとはまったく違う。
 いい悪いや内容の好みは置いておいても、「良く出来ている」それが少林サッカーだ。
 ちなみにシンチー映画は、日本のマンガの手法をふんだんにとりいれながら、いつも同じプロットを語っている。まるで世界各国の神話のように。
 カンフーハッスルもそこから外れていない。
 少林サッカーの主人公シンが、冒頭で食神の主人公シンのように歌うシーンよろしく、今回も登場したシンの前に、サッカーボールが転がってくる。
 それをひとしきりリフティングした後、彼はこう言う「もうサッカーはやめた」
 しびれるーーーー! 「いつもと同じ映画ですよ」というシンチーのアピールだ。
 公開中のため、内容は省くが、少林サッカーで描き切った物語を、今回は1時間40分ほどに、実によくまとめている。前回要所を占めていた人情のパートを省き、より娯楽として楽しめるようにしている。恐らく、前回の完全さが分からなかった人々へのサービスだろう。
 結果、大切なポイントが欠けているように見える個所がいくつかある。だが、それを単品で指摘してはダメなのだ。ましてや、鬼の首を取ったように言っては。
 前作、さらにその前の作品までさかのぼって、伝えたいこと、やりたかった事を把握した上で、作品とは語られるものなのだ。
 これが文脈という物だ。

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